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ジオ京都御所西

CONCEPT

現地周辺航空写真
御所西 THE NEXT TRADITION 京の古格に、新風が吹く。
京都は、千代にわたり受け継ぐ伝統を、今なお日常に触れる日本の原点ともいうべき場所。
茶道、華道、京織物、書院造
枚挙にいとまがない京都発祥の文化は、いかに伝承されてきたか。
京都の数ある伝統継承者たちから窺えるのは、「伝統とは新たな変化の積層である」という信念。
不変の魂を守りながら、進化しつづける姿勢。
京都・御所西、今出川通。
悠久の歴史を刻む地に息づく伝統継承の信念に学び、今ここに、ジオが新たな邸宅像を築く。
御所の雅に寄り添いながら、都市を謳歌する「邸宅の新風」を。
重厚でありながら、モダンデザインをまとう「意匠の新風」を。
そして、街なかでは得難い、開放感あふれる「住まいの新風」を。
京都に、新たな暮らしをもたらしつづけてきたジオが今また、邸宅の新風を吹きこむ。
気風、風趣、時風、疾風、風格、風雅、風光

先人の心を継承し、
伝統を進化させ続ける地、御所西。

家元が受け継ぐ日本文化の粋。
利休ゆかりの侘び茶。
質素で閑寂なものに心の充足を見出す、侘び。
古くから日本に伝わるこの美意識を重んじ、
独自の茶の湯を大成させた千利休。
それから数百年の時を経た今、
御所西には利休の道統を連綿と受け継ぐ
三千家のひとつである武者小路千家が茶室を構え、
我が国が世界に誇るもてなしの美学を
時代を超えて発信し続けています。
連綿と受け継がれる職人の矜持。
色褪せることのない技。
千家の流れを汲む茶道具を代々つくる千家十職。
そのなかで茶碗師や塗師などの職家が
御所西を舞台に伝統文化を継承。
古来、朝廷や幕府への献上品としてつくられ、
絢爛豪華な能装束ともゆかりの深い伝統工芸は
海外の技術をいち早く取り入れるなど
革新への飽くなき挑戦を通して進化を続け、
西陣織としてその名を広く世界に知られています。
里内裏や将軍の城が置かれた地。
都を彩った文化の華。
今日、京都御苑の西に碑が遺る土御門内裏は
平安時代に鳥羽・崇徳・近衛天皇が住まわれた里内裏。
戦国の世にはその周辺一帯に足利義昭の二條城が築かれ、
さらに織田信長や加藤清正といった
武将が現在の御所西に邸宅を構えたと伝えられています。
現地南側にはかつて絵師の狩野元信が暮らし、
日本画史上最大の画派となる狩野派が
ここから華開きました。
image photo
エリア概念図
エリア概念図
京都市中心部にあたかも森のように広がる京都御苑。そのすぐそばに位置する御所西にはかつて里内裏や武将の城が築かれ、茶道の家元や絵師たちにより日本を代表する文化が育まれてきました。現在の御所西は、エリア内の多くが穏やかな街並みが形成された第二種住居地域に指定。京都府庁を筆頭に公的機関が集積し、文化庁も移転するなど官庁街としての側面を併せ持っています。
京都御苑 歴史
794年(延暦13年)
桓武天皇が定めた内裏(皇居)は現在の京都御所の西、千本丸太町交差点付近に位置していました。
1227年(安貞元年)
内裏は何度も焼失し、安貞元年の火災以後は元の位置に内裏が再建されることはありませんでした。
1331年(元弘元年)
光厳天皇が現在の京都御所で即位。元々は里内裏のひとつ、東洞院土御門殿に由来するものでした。
1392年(明徳3年)
南北朝合一により御所が皇居として定められ、以来明治に至るまで天皇の住まいとなりました。
1869年(明治2年)
明治天皇の東京遷幸により御所周辺の公家たちも東京に移り、公家町は急速に荒れ果てました。
1877年(明治10年)
明治天皇により京都府に対して御所保存などの御沙汰がくだされ、大内保存事業が始まりました。
1883年(明治16年)
京都御苑の管理が京都府から宮内省に引き継がれ、その後も整備が続けられました。
1915年(大正4年)
大正大礼に際して建礼門前大通りの改修工事が実施され、現在の京都御苑の姿に整えられました。
1947年(昭和22年)
新宿御苑、皇居外苑とともに、京都御苑を国民公園とすることが閣議決定されました。
1971年(昭和46年)
環境庁による管理が始まると京都御苑は都市公園的な機能に加え、環境保全の役割を担い始めました。
※掲載の現地周辺航空写真(2022年8月撮影)はCG処理を施したもので実際とは異なります。また、現地光柱は実際の高さ・規模を表すものではありません。
※掲載の概念図は、模式図のため実際とは異なります。