独創のDNAを名古屋へ創始者・小林一三

独創のDNAを名古屋へ 創始者・小林一三

実業家・文化人として才能を発揮

阪急阪神東宝グループの創始者であり、文化人としても活躍した小林一三は、1873年、現在の山梨県韮崎市に生まれました。慶應義塾の在学中に新聞連載の小説を書くなど文学青年でもあった一三は、のちに宝塚歌劇の脚本を自ら手掛けます。
卒業後は銀行に勤めますが、事業の面白さに目覚めたことから銀行を退職。1907年、箕面有馬電気軌道(現、阪急宝塚線・箕面線)を創立しました。鉄道の建設と同時に沿線の宅地開発を進めるアイデアは独創的なもので、住宅ローンの先駆けとなる住宅販売方法の開発によっても大きな成功をおさめます。さらに、阪急百貨店(現、阪急うめだ本店)の開業、宝塚歌劇の創設など、現在につながる私鉄経営モデルの原型を作り上げました。
実業家として高く評価され政財界で手腕を発揮した一三は、逸翁の号で茶人、美術コレクターとしても活動し、価値ある文化財を後世に伝える役割も果たしました。1957年、84歳で没した一三のDNAは、現在も阪急阪神東宝グループ各社に脈々と受け継がれ、社会に豊かな暮らしを提案し続けています。

  • 1910(明治43)年 最初の「1形」電車1910(明治43)年 最初の「1形」電車
  • 1929(昭和4)年 ターミナルデパート開店1929(昭和4)年 ターミナルデパート開店
  • 1934(昭和9)年 東京宝塚劇場開場1934(昭和9)年 東京宝塚劇場開場

近代日本を築いた幅広い事業活動

一三は実業家として、実にさまざまな事業を手掛けました。阪急電鉄の創立、沿線での不動産事業の展開、阪急百貨店の創業、宝塚歌劇団の創設、ホテル事業の展開、阪急ブレーブスの創設、東宝の設立など。その分野は鉄道、不動産、流通、観光、教育、エンタテインメントまで、多岐にわたります。また、沿線の地域開発によって鉄道需要を創出する経営手法は、のちに日本の鉄道会社に大きな影響を与えることになりました。
その活動範囲は関西圏のみならず、東京宝塚劇場や東宝の社長として活躍したほか、東京電燈(現、東京電力)の経営に参画し、日本軽金属の初代社長にも就任。さらに、田園調布の開発で知られる田園都市株式会社の経営を指南し、東京のまちづくりをバックアップしました。
そして、関西、関東で長く活動をしてきた阪急阪神不動産が、いよいよ名古屋へ。豊かな暮らしの創造を追い求めた一三のDNAを継承し、独自の輝きを発揮する名古屋のまちづくりに貢献したいと考えています。

  • (旧)宝塚大劇場ロビー(1924年)(旧)宝塚大劇場ロビー(1924年)
  • 1932年頃 阪急百貨店の売場風景1932年頃 阪急百貨店の売場風景
  • 阪急電鉄阪急電鉄

名古屋での出会いなど、社会を動かした人的ネットワーク

経済や政治、文化など多方面で活躍した一三は、多くの人物と関わり、社会にも影響を与えました。名古屋との関わりでいえば、一三が銀行員時代に名古屋で知り合った14代竹中藤右衛門があげられます。竹中家は江戸時代から尾張名古屋で社寺の造営に携わっていましたが、藤右衛門は一三がいる関西に竹中工務店を創設し、阪急電車の高架橋や宝塚大劇場、梅田阪急ビル(阪急百貨店)など、一三の事業に関連した建物の建設を担いました。また、大河ドラマでも描かれた実業家・渋沢栄一の息子である渋沢秀雄に、一三は阪急沿線の住宅地を案内し、土地経営を指導。栄一が設立し、秀雄が取締役を務めた田園都市株式会社は、田園調布や洗足田園都市の宅地を開発し、鉄道敷設や電力供給を行いました。田園都市株式会社には後に東京急行電鉄(東急)を創業する五島慶太も参加し、一三の教えをもとに東急の礎を築きあげました。
さらに、早稲田大学野球部の監督だった河野安通志は、アメリカで盛んな職業野球を日本でもつくったらどうかという一三の言葉を機に、日本初のプロ野球チームを創設。1936年、プロ野球チームのリーグ戦が始まると、一三は読売新聞社社主・正力松太郎らとともに株式会社後楽園スタヂアム(現、株式会社東京ドーム)を設立し、プロ野球の発展にも尽力しました。

  • 小林一三の旧邸「雅俗山荘」 竹中工務店によって1937年竣工小林一三の旧邸「雅俗山荘」 竹中工務店によって1937年竣工
  • 梅田阪急ビル(阪急百貨店)梅田阪急ビル(阪急百貨店)
  • 阪急学園池田文庫阪急学園池田文庫